伊能家の経営内容

○伊能家の経営概況

伊能家の経営内容は、どのようなものだったのでしょうか。伊能家の功績を記録した「旌門金鏡類録(せいもんきんきょうるいろく)」には、寛政11(1799)年末から忠敬父子の苗字帯刀を求めた訴願で、村役人たちが勘定奉行へ報告した内容が示されています。そこでは、伊能家の経営について、米穀取引と酒造が中心で、そのほかに地面と店貸し百軒ほど、所持地は本田100石余・新田2町余、総資産は2~3万両といいます。奉公人については、耕作の奉公人が男女5人、店の方では使用人6~7人・下女5~6人を、米舂では季節雇25人余を含んで50人程いたと伝えています。

また、伊能家では忠敬入婿以前から江戸に出店を持っていました。米穀取引を展開していた江戸出店の加納屋は、天明 4(1784)年に旗本津田氏の領主米を取り扱う蔵元にもなっています。またこれより先、一族の伊能豊秋の日記によれば、忠敬は明和 6(1769)年に江戸新川に薪問屋を開いています。そして翌年8月に火災に遭い、自家以外の荷主の物も含めて7万駄を焼失しています。出店も持ちながら自家の物ばかりでなく、周辺の荷主からも集荷して米穀・薪炭などの商物取引も手広く展開していたようです。

経営の全体像を示す帳簿は店卸帳ですが、一般的にはその時点での有物資産の勘定をしています。伊能家では、正月頃と7月頃に有物と利金の勘定をした帳簿が作成されたようです。本店の店卸目録帳は、明和 7(1770)年正月、安永 3(1774)年2月、天明 4(1784)年正月、天明 7(1787)年正月、寛政 6(1794)年正月のものが現存しています。下に示したのは「寛政六寅正月店卸目録帳」ですが、忠敬が隠居する年の店卸帳です。

伊能家 寛政六年正月店卸目録

寛政六寅正月店卸目録 表紙(伊能忠敬記念館蔵 伊能家文書G1-22)

○忠敬翁が当主であった時期の経営構造

上記の寛政6年の店卸目録帳には、総額1264両の営業利金の内訳が計上されています。それを下のグラフで示します。「田徳」とは、田畑に関わる利金で、奉公人を使った手作り耕作と小作料の収入とみられます。「店賃」は、後の回でもふれますが屋敷地に長大な長屋があり、入り込み商人などへ店貸して得た収入でしょう。「倉敷」は商物を蔵へ預かった保管料、「運送」は手舟を運行して得た運賃収入、「米の利」は米穀取引の利、「酒の利」は酒造経営の利、「利潤嵩」は貸金利子収入に当たるでしょう。前述の勘定奉行への報告の通り、酒造と米穀取引の比重が高いばかりでなく、ここでは金融部門の位置が最高になっていたことにも注目しておきたいと思います。

寛政六年(1794)の営業利金の内訳

在方町の豪家であった伊能家の総資産は、今日の金額で換算すると少なく見積もっても数十億円規模とみられます。その経営部門は、大きく分けると以下のような部門で構成されていました。農業部門では、土地集積を進めて140石を超える地主となり、奉公人を使用して手作り耕作をすると共に、田畑を小作に出して小作料も収納していました。また商品経済の発展に対応して事業は拡大してきていました。その中でも、酒造部門や米穀や薪炭などの商物取引部門は、安永3年の店卸目録帳などと合わせみると大きな位置を占めていました。不動産部門では家主として他所から移住してきた商人へ屋敷地や店の賃貸を行い、運送部門では江戸や利根川水系の河岸へ手舟を所持して運賃収入を得、土蔵を所持して倉敷料を得ていました。またほかにも金融部門では、貸金で利子収入を得ると共に、質流れ地などで土地を集積していたようです。

 

○伊能家の経営拡大

昭和戦前期の修身の教科書などには、忠敬翁は傾いていた伊能家の経営を立て直し、飛躍的に資産を増大したとされていましたが、本当にそうだったのでしょうか。今後とも史料から検証して、翁の功績が肥大化して伝えられていないかどうかについても、留意してみていきましょう。まず田畑などの土地所持高の推移はどうだったでしょうか。享保 8(1723)年の質流れ地の禁止が解除されると、村外へも土地所持が広がるとみられますが、それの統計がありません。下のグラフは佐原村と佐原新田の土地所持高だけを示したものですが、傾向はつかめると思います。享保 5(1720)年は祖父の景利の時期で52石余、寛保 3(1743)年は先代の長由が死去した直後で73石余、明和 3(1766)年は忠敬翁が当主であった時期で84石余、享和 2(1802)年は嫡男景敬の時期で145石余です。全体傾向を見ると、伊能家では忠敬翁時代を含めて、順調に所持地を拡大してきています。

伊能家の佐原村・同新田の土地所持高

伊能家の店卸帳にみる有物高(両)

次に土地以外の金融債権を含んだ有物資産の動向を、上のグラフでみていきましょう。忠敬が入婿した宝暦12(1762)年から8年後の明和 7(1770)年に有物資産が1414両余、隠居の年の寛政 6(1794)年には4796両余となっています。この間、田沼時代の民間商品経済の発展にのって3倍以上に膨張しています。これまで伝えられているように、忠敬翁の時代に、伊能家の経営は飛躍的に増大していったといって良いでしょう。しかし、経営が傾いていた伊能家の立て直しが図られたという点については、入婿以前のものと比較する必要があります。これについては、酒造経営の勘定帳からある程度わかりますが、後の酒造経営の回で取り扱うこととします。

(酒 井 右 二)

<参考文献>

酒井右二「近世中後期在町佐原における伊能家の経営動向」

(『千葉県の歴史』第35号 千葉県1988年)

酒井右二「近世中後期に於ける在郷町商業資本の動向―下総佐原伊能家を中心にして―」

(『関東近世史研究』第9号 関東近世史研究会 1977年)